湯煙

山間の静かな温泉旅館「ゆのやど」。築80年の古びた木造建築だが、風情があると評判の宿だ。館内には常に薄く湯煙が漂い、独特の雰囲気を醸し出している。
ある日、若女将の美雪は、珍客を迎えた。
男はスーツ姿で、見た目はどこにでもいるサラリーマンだが、どことなく不思議な雰囲気を漂わせている。名を「藤田」と名乗った。
「少し長めに滞在したいんですが、よろしいですか?」
彼の目は旅館の隅々まで観察しているようだった。
美雪は快く部屋に案内した。けれど、滞在初日から藤田は奇妙だった。
露天風呂に入るでもなく、食事もさっと済ませると、一人で廊下を歩き回る。そして、湯煙をじっと見つめては、何かをメモしている。
「湯煙を研究でもしてるのかしら…?」
美雪がそう思った矢先、藤田が声をかけてきた。
「若女将、この旅館、湯煙が出すぎていませんか?」
「ええ、昔からなんです。霧のように立ち込めているのが売りで…」
「でも、この湯煙、少し変ですよね。たとえば、風のないところでも動いている」
美雪は言葉に詰まった。確かに、湯煙は旅館中で自由に漂うように見える。まるで意思を持っているかのように。
次の日、藤田は小さな装置を湯煙の中に設置し始めた。装置は音もなく、ただ淡々と作動しているようだ。美雪が不安になって問いただすと、彼は笑顔で答えた。
「これは湯煙の正体を調べるための機械です。ただの蒸気か、それとも…ね。」
「それとも…?」
「何か、もっと特別なものかもしれません。」
その日の夜、異変が起きた。旅館中の湯煙が一斉に動き始めたのだ。まるで生き物のように渦を巻き、音を立てながら廊下や部屋を行き来する。驚いて飛び出してきた宿泊客たちもその光景に息を呑む。
「これは…!まるで、湯煙が怒っているみたい…」と美雪がつぶやくと、藤田は冷静に装置を取り出した。
「どうやら、この旅館の湯煙は、ただの蒸気ではないようです。」
「じゃあ、一体何なんですか?」
藤田は意味深な笑みを浮かべた。
「ここは、湯煙たちの故郷なんです。彼らにとって、この旅館は特別な場所。私が少し刺激しすぎたようですね。」
彼が装置を止めると、湯煙は次第に静まり、元通りに戻った。
翌朝、藤田は静かに旅館を去った。美雪がふと気づくと、彼の残した宿帳には「湯煙研究家」と書かれていた。
その後も「ゆのやど」の湯煙は健在で、静かに旅館を包み込んでいる。だが、美雪は時々思うのだ。湯煙の奥に、何かもっと深い秘密が隠されているのではないかと。
藤田が旅館を去った後も、「ゆのやど」は以前と変わらず、のどかで穏やかな日々を送っていた。だが、美雪の心には、藤田の言葉がどこか引っかかっていた。
「湯煙たちの故郷…」
そうつぶやくたびに、湯煙がふわりと揺れ、まるで答えたがっているように見える。
そんなある日のことだ。旅館の大広間で、常連客の老夫婦が不思議な話を始めた。
「昔、このあたりに神様が住んでいたって話を知ってるかい?」
「ええ、この土地の守り神が温泉を湧かせてくれたっていう伝説ですよね。」美雪は答えた。
老夫婦は首を振る。
「いや、もっと珍しい話だよ。湯煙そのものが神様だったって言うんだ。」
「え?」
「湯煙に姿を変えた神様が、この土地を巡っているうちに、ここに落ち着いたってさ。温泉の湯気が多いのは、その神様の気まぐれだって。」
その話を聞いて、美雪は藤田の言葉を思い出した。「湯煙たちの故郷」というのは、まさか…。
その夜、美雪は一つの決心をした。
「湯煙に聞いてみよう。」
露天風呂は静まり返り、月明かりが湯船に映り込んでいる。美雪は浴衣のまま湯船の縁に座り、小声で話しかけた。
「ねえ、湯煙さん。本当にあなたたちはこの土地の神様なの?」
返事があるはずがない、そう思っていた。だが、湯煙がふわりと舞い上がり、美雪の周りを優しく包み込んだのだ。まるで言葉を持たない何かが「そうだ」と答えているかのように。
「どうして、私たちを選んでくれたの?」
湯煙はしばらく揺れた後、突然、浴場の外へと流れていった。驚いた美雪はそれを追いかける。湯煙は長い廊下を抜け、階段を上がり、旅館の一番奥の部屋へと導いていく。そこは普段は使われていない古い部屋だった。
襖を開けると、部屋の中央に大きな木箱が置かれていた。木箱は年月を経て黒ずみ、蓋には見たことのない文字が刻まれている。湯煙はその箱の周りを漂いながら、美雪に語りかけているようだった。
「これを、開けろと…?」
美雪が蓋を開けようと手をかけた瞬間、旅館全体が微かに揺れた。まるで何かが目を覚ますような感覚。そして、箱の中から現れたのは――湯気だった。だが、それはただの湯気ではなかった。虹色に輝き、形を変えながら部屋中に広がっていく。
その中心に、ぼんやりと人の形が現れた。小柄な老人のようにも見えるが、顔ははっきりしない。彼は静かに美雪に語りかけた。
「お主、この宿を守り続けておるな?」
美雪は驚きながらも、うなずいた。
「そうです。ですが、あなたは…?」
「わしは、この土地の湯を生み出す者。古の時代より、ここに眠っておった。」
老人のような姿の湯煙は微笑むように形を変え、ふわりと舞い上がった。
「わしを解き放った礼に、この宿とお主に力を貸そう。お主がこの宿を守る限り、湯煙はお主の味方だ。」
そう言い残すと、湯煙は静かに箱の中に戻り、また姿を消した。しかし、その日以来、「ゆのやど」の湯煙はさらに特別なものになった。温泉の効能はより強まり、旅館に訪れる人々は皆、心身ともに癒されて帰るようになったのだ。
そして、美雪は時々露天風呂の縁に座り、湯煙にそっと語りかけるのだった。
「これからも一緒に、この宿を守っていこうね。」
湯煙は、ふわりと頷くように揺れて応える。