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  • 【短編小説 予見】

    予見

    翔太には、不思議な力があった。

    それは、「少しだけ未来が見える」というもの。

    ただし、その能力は万能ではない。見る未来は数秒から数分先程度。しかも、いつ発動するかはわからず、不意にビジョンが脳裏をよぎるだけだった。

    子どもの頃は、この能力に悩まされた。転びそうな友達を事前に助けたら「なんでわかったの?」と気味悪がられたし、誰かがこっそりお菓子をつまみ食いするのを予知してしまい、逆に自分が疑われることもあった。

    「この力、あんまり役に立たないな……」

    そう思いながら大人になり、翔太はごく普通の会社員として働いていた。能力は日常生活のちょっとした場面で役立つこともあったが、劇的に人生が変わるようなことはなかった。

    ある日のこと。翔太は会社の帰り道、何気なく交差点を歩いていた。すると、突然頭の中に映像が流れ込んできた。

    「横断歩道を渡る自分。その瞬間、猛スピードのトラックが信号を無視して突っ込んでくる――」

    翔太はハッとして立ち止まり、すぐに横断歩道から一歩引いた。次の瞬間、予知通りにトラックが赤信号を無視して走り抜けていった。

    「危なかった……」

    もし能力がなかったら、確実に轢かれていただろう。初めて自分の力に救われた瞬間だった。

    それ以来、翔太はこの力を少しでも役立てられないかと考え始めた。とはいえ、未来を大きく変えられるほどの力ではない。できるのは「ちょっとした先の出来事を回避する」程度だ。

    しかし、ある日、大きな転機が訪れた。

    翔太はカフェでコーヒーを飲んでいると、不意にビジョンがよぎった。

    「目の前に座っている女性がスマホを落とし、それを拾おうとしてカバンの中身をぶちまける」

    目の前にいるのは、どこか上品な雰囲気の女性だった。翔太は少し迷ったが、思い切って声をかけた。

    「あの……すみません、スマホ、落としそうですよ。」

    女性は驚いた顔をしたが、次の瞬間、本当にスマホを落としそうになり、慌てて掴んだ。

    「あ、ありがとう! よくわかったね!」

    「いや、なんとなく……」

    翔太は適当にごまかした。

    それが、未来の妻・麻美との出会いだった。

    翔太の能力は、彼の人生を劇的に変えたわけではなかった。ただ、ちょっとした危険を避けたり、人を助けたり、素敵な出会いを生んだりする程度のものだった。

    それでも、彼はこう思うようになった。

    「未来が見えるのは、ちょっとした幸運を掴むためのものなのかもしれない。」

    そして数年後、翔太は幸せな家庭を築きながら、今日もふとした未来を見つつ、穏やかに生きている。

  • 【短編小説 リセット】

    リセット

    大輝は、毎朝同じ夢を見て目を覚ます。夢の中では、自分が何か重要なことを忘れないように必死でメモを取っている。だが、目を開けた瞬間、その内容を思い出すことはできない。

    彼には奇妙な秘密があった。それは、毎日記憶が完全にリセットされてしまうことだ。

    「昨日、俺は何をしていた?」

    大輝は目覚めたばかりのベッドで呟く。しかし、その問いに答えるものは誰もいない。枕元にはノートとペンが置かれており、「今日は仕事が休みだ。ゆっくり休め」と書かれたメモがあった。どうやらこれは、昨日の自分が書いたものらしい。

    大輝の記憶は、一日の終わりにすべて消えてしまう。その代わり、彼はノートに自分の一日を詳細に記録し、それを毎朝読み返すことでなんとか生活を保っていた。

    「今日は何をするんだろう?」

    ノートをめくると、最近の彼が仕事を辞め、専念している「計画」が記されていた。それは、「記憶がリセットされる原因を突き止める」というものだった。

    その日、大輝は図書館に向かい、医学書や心理学の本を手当たり次第に漁った。しかし、特異な記憶喪失の事例について記された本は見つからない。

    「どうして俺だけ、こんなことになったんだ……」

    帰宅途中、彼は不意に奇妙な既視感を覚えた。同じような道を以前にも歩いた気がする。だが、それはいつのことなのか思い出せない。

    ふと目の前に現れた街角の喫茶店。大輝はそこに引き寄せられるように足を踏み入れた。

    「いらっしゃいませ。」

    店内には年配のマスターが一人で切り盛りしているようだった。大輝が席につくと、マスターがほほえみながら言った。

    「また来てくれたんだね。」

    「え?」

    大輝は首をかしげた。

    「初めて来たと思うんですけど……」

    マスターは困ったように笑った。

    「そう言うだろうね。でも君、ここに何度も来てるんだよ。いつも同じ質問をして帰っていくんだ。」

    「同じ質問?」

    「君の記憶の話さ。」

    マスターの言葉に驚いた大輝は、彼から詳しい話を聞くことにした。どうやら、大輝はこの店を何度も訪れており、自分の記憶がリセットされる原因について尋ねていたらしい。そしてそのたびに、マスターは次のような答えをしていた。

    「それは、君が選んだことなんだ。」

    「選んだ? 俺が?」

    「詳しいことは話せない。でも、君は何かを守るために、そうする道を選んだんだよ。」

    「何かを守る?」

    マスターはそれ以上語ろうとはせず、ただ一言だけ付け加えた。

    「答えは、君自身が知っているはずだ。」

    その夜、大輝は家に帰り、自分のノートを改めて読み返した。何度も繰り返される同じような記録の中に、ある一文が目に留まった。

    「何かを守るために、この記憶を犠牲にした。」

    「やっぱり……俺が自分で決めたことなのか?」

    さらにノートを読み進めていくと、あるページに他とは違う内容が書かれていた。

    「次に思い出すべきは、明子。」

    「明子……誰だ?」

    翌日、大輝は明子という名前を手掛かりに調べ始めた。そして、彼女がとある介護施設で暮らしていることを突き止めた。

    施設を訪れると、車椅子に座った老婦人が目の前に現れた。大輝は彼女に会った覚えはなかったが、なぜか強く惹かれるものを感じた。

    「お会いしたこと、ありますか?」

    そう尋ねると、明子は優しく微笑んだ。

    「あなた……健ちゃん?」

    「健ちゃん?」

    「私の息子……でも、もう亡くなってしまったの。」

    その話を聞いて、大輝の頭の中に断片的な記憶が蘇った。彼は明子の息子・健一の親友であり、健一が亡くなったあと、明子の面倒を見ようと決心したことを。

    そして、記憶がリセットされる症状は、ある実験的な治療を受けた結果だった。大輝は自分の辛い過去を忘れる代わりに、日々明子を訪れて幸せな時間を過ごすことを選んだのだ。

    「忘れてしまっても……毎日あなたに会えてよかった。」

    明子の言葉に、大輝は涙が止まらなかった。その日もノートに新たな一文を記した。

    「忘れてもいい。ただ、大切な人を守る。それだけでいい。」

    そして翌朝、大輝はまた目を覚まし、ノートを手に取る。そこには、こう書かれていた。

    「今日も明子に会いに行こう。」

  • 【短編小説 未来】

    未来からの訪問者

    和也は、ごく普通の青年だった。特筆すべき才能もなければ、夢中になれる趣味もない。大学を卒業して数年、都内の小さな企業に勤める毎日は、ただ時間が過ぎるだけの単調なものだった。

    「このまま一生を終えるのか……」

    ふとした瞬間、そんな不安が胸をよぎる。だが、それ以上何をすればいいのかもわからない。そんな日々の繰り返しだった。

    ある日、和也がいつものように帰宅し、鍵を開けてドアを開けると、部屋の中に見知らぬ男が座っていた。

    「な、何だ!?」

    突然の光景に驚いた和也は、思わず声を上げた。

    「驚かせてしまったかな?」

    男は落ち着いた声で答えた。30代後半くらいの男で、整ったスーツ姿をしている。顔立ちにはどこか見覚えがあった。

    「お前、誰だ? どうやってここに入ったんだ!」

    「まあ、落ち着け。俺は……そうだな、未来のお前だ。」

    「……は?」

    あまりにも突拍子もない言葉に、和也は思わず口を開けて固まった。

    男は話を続けた。

    「信じられないのはわかる。でも、俺はお前自身だ。15年後の未来から来た。」

    「そんなわけあるか!」

    和也は笑い飛ばそうとしたが、男の顔をじっと見ていると、その目元や鼻筋がどうにも自分にそっくりだと気づく。

    「証拠が必要か?」

    男はそう言うと、和也が最近誰にも話していない秘密を次々と語り始めた。たとえば、こっそり飼っている観葉植物の名前や、昨晩見た悪夢の内容まで。

    「どうだ、これでも信じられないか?」

    和也はすっかり言葉を失った。

    「で、未来の俺が、なんでわざわざ今の俺のところに現れたんだよ?」

    和也が恐る恐る尋ねると、男は真剣な顔つきになった。

    「お前、今のままでいいと思っているのか?」

    「それは……」

    「このまま何もしないでいると、お前は何の変化もない人生を歩むことになる。俺がその証拠だ。」

    男は自嘲気味に笑った。

    「15年後の俺は、後悔ばかりしている。もっと若いうちに努力していれば、違う人生を送れたはずだと。だからこうして、お前に会いに来たんだ。」

    和也は反論しようとしたが、男の真剣な表情に言葉を失った。

    「じゃあ、俺にどうしろって言うんだよ?」

    「まずは、自分が本当に何をしたいのか考えることだ。そして、それに向けて行動しろ。」

    男はスーツのポケットから小さなメモ帳を取り出し、和也に渡した。それには未来の自分からのアドバイスが簡潔に書かれていた。
    • 何でもいいから新しいことを始めろ。
    • 人に頼るのを恐れるな。
    • すぐに結果を求めるな。

    「たったこれだけ?」

    和也は拍子抜けしたように言ったが、男は首を振った。

    「簡単なようで難しいんだ。これをおろそかにした結果、俺は15年後に後悔している。」

    それから数時間、未来の自分は和也にさまざまな話をした。自分がどんな失敗をしてきたか、何が足りなかったのかを包み隠さず語った。

    「でも、もしお前がここから頑張れば、俺とは違う未来を歩めるかもしれない。」

    男は最後にそう言い残し、突然部屋から姿を消した。

    未来の自分との奇妙な出会いから数日間、和也は半信半疑ながらも、言われた通りに新しいことに挑戦してみることにした。まずは、以前から興味のあったギターを始めることにしたのだ。

    最初は下手くそで、自分に才能がないことを痛感する日々だった。それでも、少しずつ弾けるようになり、やがて友人とバンドを組むことに。

    さらに、職場ではこれまで避けてきたリーダー役を引き受け、チームのまとめ役として奮闘するようになった。結果、上司からの評価も徐々に上がり、昇進の話まで出るようになった。

    それから数年後、和也はギターをきっかけに知り合った女性と結婚し、充実した家庭を築いていた。仕事でも趣味でも充実感を得る毎日を送る中で、ふとあの日のことを思い出した。

    「本当に未来の自分だったのか、それともただの夢だったのか……」

    それはわからない。だが、あの日の出来事が自分の人生を変えたのは間違いなかった。

    和也はギターを手に取り、穏やかな笑みを浮かべた。

    「未来の俺、ありがとうな。」

    窓の外に広がる空を見上げながら、和也はそうつぶやいた。

  • 【短編小説 先祖】

    ご先祖様

    優一は平凡な会社員だった。仕事はきついがやりがいも少なく、上司は厳しい。最近は疲れが顔に出るほどで、家に帰ると泥のように眠る毎日だった。

    そんな彼の生活に転機が訪れたのは、田中家の古びた仏壇がきっかけだった。

    ある土曜日、優一は実家の片付けを手伝うため、田舎に帰省していた。優一の両親は数年前に他界しており、今は誰も住んでいない家がぽつんと残されている。

    「まあ、そろそろ処分しなきゃな……」

    そう思いながら、使われなくなった家具や古い写真を整理していると、部屋の隅に古びた仏壇が目に入った。

    「まだこんなところにあったのか……」

    仏壇は何年も放置されていたのだろう。埃をかぶり、扉は少し歪んでいた。

    優一はふと中を覗き込んだ。仏壇には位牌や小さな香炉が置かれ、見覚えのない古い巻物が一緒に収められていた。

    「こんなもの、前からあったかな?」

    不思議に思いつつ、優一は巻物を手に取った。それは驚くほど軽く、ぼんやりとした文字が書かれている。

    「なんだ、これ……?」

    文字は達筆すぎて読めないが、妙に惹きつけられるものがあった。その瞬間、ふわりと香ばしい香りが漂い、背後から不思議な気配を感じた。

    「よくぞ気づいてくれたのう。」

    優一は驚いて振り返った。そこには和服姿の老人が立っていた。

    「だ、誰ですか!? いつの間に家に入ったんですか!」

    「慌てるでない。わしは田中家の先祖、田中源左衛門じゃ。」

    「……は?」

    優一は完全に言葉を失った。目の前の老人は透けているように見え、足元がない。幽霊以外の何物でもない。

    「信じられんかもしれんが、わしはお前の先祖だ。この仏壇には特別な力が宿っておる。お前が巻物を手に取ったことで、わしが目覚めたというわけじゃ。」

    最初は信じられなかった優一も、源左衛門の落ち着いた語り口と奇妙な説得力に押され、半ば強引に話を聞くことにした。

    「で、俺をどうしたいんですか?」

    「いや、むしろお前がどうしたいのかを聞きたい。わしは田中家の子孫を見守る使命を持っているが、最近のお前を見ておると、少々疲れているように見えたのでな。」

    優一はその言葉に少しだけ驚いた。

    「まあ、確かに仕事でいっぱいいっぱいですよ。でも、それが普通っていうか……別に何か変えられるわけでもないし。」

    源左衛門は眉をひそめた。

    「それはお前が田中家の力を知らぬからじゃ。」

    源左衛門は、田中家には「困難を乗り越える力」を受け継ぐ秘密があると語り始めた。仏壇はその力を守る役目を果たしており、先祖たちの知恵や加護が必要なときにのみ姿を現すのだという。

    「お前にとっての助けとなるものを一つ授けよう。ただし、使い方を間違えれば自らを滅ぼすことにもなりかねん。覚悟はあるか?」

    優一は半信半疑ながらもうなずいた。

    「わかった。何をすればいいんですか?」

    源左衛門は手をかざすと、優一の前に一対の小さな鍵を差し出した。それは古びた金色の鍵で、細かい模様が彫られていた。

    「これが田中家の『幸運の鍵』じゃ。この鍵を使えば、難題を解決する手助けをしてくれる。」

    「こんな小さな鍵で?」

    「大切なのは鍵そのものではない。お前がその鍵をどう使うかだ。」

    源左衛門はそう言い残すと、ふっと消えてしまった。

    優一は半信半疑ながらも鍵を持ち帰った。

    その翌日、会社で大きなトラブルが発生した。重要なプロジェクトでデータが消失し、上司から厳しい叱責を受けることになったのだ。

    「田中、お前が責任を取れ!」

    完全に窮地に立たされた優一は、ふとポケットの中の鍵を思い出した。

    「……まさかね。」

    しかし、すがるような思いで鍵を握りしめた瞬間、不思議な感覚が彼を包んだ。

    その日、優一は奇跡的なひらめきを得て、失われたデータを復元する方法を思いついた。翌日にはプロジェクトが無事に完了し、上司からは感謝の言葉を受けることに。

    「田中、お前、よくやったな!」

    信じられないような結果に、優一は呆然とした。

    その後も、優一は鍵を握るたびに小さな幸運に恵まれた。仕事のトラブルは減り、同僚からの信頼も増し、いつしか職場で頼りにされる存在になっていった。

    「先祖の力って、本当にあるのかもしれない……。」

    しかし、源左衛門の言葉を思い出し、優一は慎重に鍵を使うよう心掛けた。

    ある日、ふと気づくと、鍵がポケットの中から消えていた。慌てて探したが、どこにも見当たらない。

    その夜、優一の夢に源左衛門が現れた。

    「鍵はお前の役目を終えた。これからは己の力で道を切り開くのじゃ。」

    「でも、まだ自分にできるかどうか……」

    「大丈夫じゃ。お前にはもう、田中家の血が流れる者としての自信が備わっておる。困難に直面したとき、わしら先祖たちが見守っておることを忘れるでない。」

    目が覚めた優一は、不思議な安堵感に包まれていた。そしてその日から、鍵なしでも彼は自分の力で物事に立ち向かえるようになった。

    ご先祖様からの贈り物は消えたが、その加護は彼の心にしっかりと刻まれていたのだ。

  • 【短編小説 奇跡】

    小さな奇跡

    ある山奥の小さな村に、古い時計屋があった。時計屋は村で唯一の商店で、年老いた店主の新井修一が一人で切り盛りしていた。修一は昔、都会で腕の良い職人として名を馳せていたが、妻を亡くしたのを機に静かな田舎暮らしを選んだのだ。

    村にはほとんど人がいない。若者は都会に出て行き、残されたのは高齢者ばかり。店に客が来ることもめったにない。それでも修一は、毎日時計を磨き、小さな作業台で修理をしながら静かな日々を過ごしていた。

    ある日、修一のもとに少年が訪れた。その少年、健太は小学校の3年生で、この村に住む数少ない子どもの一人だった。

    「じいちゃん、この時計、直せる?」

    健太が手渡したのは、ボロボロの懐中時計だった。

    「これは……ずいぶん古い時計だな。どこで手に入れたんだ?」

    「家の物置で見つけたんだ。おじいちゃんが昔使ってたやつらしいけど、止まっちゃってるんだよ。」

    修一は懐中時計を手に取り、慎重に観察した。表面には傷が多く、長い間放置されていたようだったが、職人の目にはそれが精巧な作りであることがすぐに分かった。

    「面白い。やってみよう。」

    修一はその日から懐中時計の修理に取り掛かった。しかし、時計の内部はサビだらけで、一筋縄ではいかない状態だった。部品のいくつかは完全に壊れており、新しいものを作らなければならなかった。

    それでも修一は、どこか嬉しそうに作業を続けた。この村で仕事を頼まれること自体が久しぶりだったからだ。

    健太は修一の店に毎日顔を出した。

    「まだ直らないの?」

    「時計の修理は時間がかかるんだ。焦るな。」

    「時間がかかるって……時計なのに?」

    その一言に修一は思わず笑ってしまった。

    1週間後、ついに時計が動き出した。

    「見ろ、直ったぞ。」

    修一が健太に時計を手渡すと、少年の顔がぱっと明るくなった。

    「すごい! 本当に動いてる!」

    健太は嬉しそうに時計を見つめた。だが、その様子を見ているうちに修一はふと疑問に思った。

    「そういえば、どうしてこの時計を直したかったんだ?」

    健太は少し恥ずかしそうに答えた。

    「おじいちゃんが、昔この時計を大事にしてたっておばあちゃんが言ってたんだ。おじいちゃん、最近元気ないから、これを見せたら喜ぶかなって思って。」

    健太のおじいちゃんは数年前に大病を患い、今では家に閉じこもりがちになっていた。そんな祖父を元気づけたいという健太の思いを聞き、修一は胸が温かくなるのを感じた。

    「いい心がけだ。きっと喜ぶぞ。」

    翌日、健太は修一から受け取った懐中時計を持って祖父のもとへ行った。

    「おじいちゃん、これ覚えてる?」

    祖父はゆっくりと時計を手に取り、驚いた表情を浮かべた。

    「これ……まだあったのか。もう動かないと思ってたのに……。」

    時計を見つめる祖父の目には、涙が浮かんでいた。そして、それをじっと見つめる健太の顔にも、どこか満足げな表情が浮かんでいた。

    その話を聞いた村人たちは、久しぶりに明るい話題ができたことを喜んだ。修一の店にも少しずつ人が訪れるようになり、「昔の置き時計を直してほしい」「父が使っていた腕時計を動くようにしてほしい」といった依頼が舞い込むようになった。

    修一は忙しくなったが、それが心地よかった。村の人々の生活に、少しだけでも役立てるのが嬉しかったのだ。

    それから数か月後、修一の店の看板の横には、新しいプレートがかかっていた。

    「時間をつなぐ時計屋」

    村の人々はその看板を見るたびに、小さな奇跡を思い出して微笑んだ。そして健太もまた、修一の店を訪れては「今日は何してるの?」と興味津々に作業を覗き込むのが日課になった。

    村の静かな日常は、少しだけ賑やかになった。それは時計の音が響くようになったからか、それとも人々の心がつながったからか。どちらにせよ、この村には確かに小さな奇跡が起こったのだった。

  • 【短編小説 猫】

    小さな出会い

    翔太は、毎日同じ道を通って職場と家を往復するごく平凡な会社員だった。ある日の帰り道、彼はふと普段とは違う道を通ってみることにした。何か刺激が欲しかったわけでもない。ただ、何となく足が向いたのだ。

    その道は、古びた商店街の脇を通る細い路地だった。誰も歩いていない静かな通りに、一匹の猫がぽつんと座っていた。

    「……お前、こんなところで何してるんだ?」

    翔太が近づくと、猫はまるで待っていたかのように鳴き声をあげた。「にゃあ」という声は驚くほど澄んでいて、何だか心に響くようだった。

    彼はしゃがみ込み、そっと手を伸ばした。猫は警戒する様子もなく、そのまま彼の手に顔を擦り付けてきた。

    「人懐っこいな。飼い猫か?」

    首輪はついていないが、毛並みはきれいで、どこか優雅さすら感じさせる猫だった。

    その日を境に、翔太はその道を通るたびに猫と会うようになった。猫はいつも同じ場所に座っており、翔太が近づくと嬉しそうに鳴き声をあげて迎えてくれる。

    翔太は次第にその時間が楽しみになり、少しだけ遠回りをしてでも猫に会いに行くようになった。仕事で嫌なことがあった日も、猫に会うと不思議と気持ちが和らぐのだ。

    「お前、名前とかあるのか?」

    ある日、そう尋ねると、猫は「にゃあ」と答えた。

    「……じゃあ、お前の名前は『にゃあ』だな。よろしく、にゃあ。」

    翔太は笑いながらそう言った。その夜、久しぶりにぐっすり眠れたのは言うまでもない。

    ある雨の日、翔太がいつもの路地に向かうと、猫の姿がなかった。いつもは待っていてくれるはずなのに……。

    「どこに行ったんだ、にゃあ?」

    不安を抱きながら辺りを探していると、小さな鳴き声が聞こえた。声のする方に急いで向かうと、猫が雨に濡れながら植え込みの中でうずくまっていた。

    「こんなところで何してるんだよ……!」

    翔太は傘も差さずに猫を抱き上げると、そのまま自宅へ連れて帰った。猫は濡れて冷たくなっていたが、翔太の腕の中で安心したのか、静かに目を閉じていた。

    その夜、翔太は猫をタオルで拭き、温かいミルクを用意した。猫は元気を取り戻し、再び澄んだ声で鳴いた。

    「ここにいていいんだぞ。俺の家は狭いけど、お前の居場所くらいはあるからな。」

    翔太がそう言うと、猫は彼の膝に乗り、満足そうに丸くなった。

    それ以来、猫は翔太の家で暮らすようになった。翔太の生活は一変した。猫がいるだけで、家に帰るのが楽しみになり、毎日が少しだけ明るくなったのだ。

    数カ月後、翔太は仕事から帰る途中にふと気づいた。あの路地を通ることはなくなったが、もう何も寂しくなかった。家には「にゃあ」が待っている。それが彼の心に大きな安らぎをもたらしてくれたのだ。

    「お前、あの日あの場所で待っててくれてありがとうな。」

    翔太がそう言うと、猫はまるで分かっているかのように「にゃあ」と答えた。その声は、あの日と同じく澄んでいて優しい響きだった。

  • 【短編ホラー小説】

    連鎖する恐怖

    「ここが噂の廃屋か……」
    薄暗い夜道を歩いてきた大学生3人組は、目の前に現れた木造の廃屋を見上げた。見るからに古びていて、窓は割れ、蔦が絡まる不気味な建物だ。地元では「誰も住まない呪いの家」として有名で、肝試しスポットとして恐れられていた。

    「いや~、これ本当に入るのかよ。やばい雰囲気しかしないぞ」
    リーダー格の隆司が笑いながらスマートフォンを取り出す。「まあまあ、こういうのは動画に撮ってSNSに上げれば一躍有名になれるって!」

    3人は意を決して廃屋の中に足を踏み入れた。

    廃屋の中は異様なまでに静まり返っていた。古びた家具が散乱し、カビ臭い空気が漂う。隆司がスマホのライトで周囲を照らしながら撮影を続けると、不意に背後から「ギシッ」という足音が聞こえた。

    「おい、誰だよ、そんなベタなことしてんの!」
    「いや、俺じゃない……」
    振り返ると誰もいない。だが、次の瞬間、影のようなものが視界の端をよぎった。

    「マジでやめろって……!」

    緊張感が高まる中、一行は奥の部屋へ進んだ。その部屋の壁一面には奇妙な文字が掻き殴られていた。

    「見た者、伝える者、全て呪われる」

    突然、スマホの画面がノイズで埋め尽くされ、耳障りな音が響き渡った。同時に、全員の周りに不気味な気配が漂い始めた。

    「出よう、もうやめよう!」
    誰かが叫んだが、出口に向かおうとした瞬間、ドアが勢いよく閉まる音がした。

    どうにか逃げ帰った3人は無事を喜びながら、その日のうちに撮影した動画をSNSに投稿した。
    「ヤバすぎ! 本当に呪いの家だった!」というキャッチコピー付きで。

    投稿はたちまち拡散され、再生回数は数日で数百万回に達した。コメント欄には「怖すぎる」「こんなことが本当にあるのか?」といった声があふれる一方で、「俺も行ってみる」と言い出す者まで現れた。

    だが、それを見た人々に異変が起こり始めた。動画の再生中に奇妙な声が聞こえる、画面の中に不可解な影が映る、さらには夜中に黒い影が家の中をさまようという報告が相次いだ。そして投稿者である3人にも次第に異常が訪れた。

    ある日、隆司が動画のコメント欄を見ていると、奇妙な投稿を見つけた。

    「次は君だ」

    ぞっとして振り返ったが、誰もいない。だが、画面を再び見ると、自分の背後に立つ黒い影が映っていた。その瞬間、スマホが異常な熱を帯び、手から落ちた。

    翌日、隆司が失踪したことを皮切りに、仲間の2人も次々と消息を絶った。

    しかし、動画は未だにネット上に残されている。誰かがそれを再生するたび、恐怖の連鎖が続いていくのだ。

    廃屋の動画がネット上で爆発的に拡散し続ける中、その影響はさらに広がりを見せていた。閲覧者の中にはただのエンターテイメントとして楽しむ者もいれば、恐怖に震える者もいた。しかし、その「呪い」の本当の恐ろしさを知る者はまだいなかった。

    ある高校生の場合

    深夜、1人の高校生が廃屋の動画を見ていた。イヤホンから漏れる不気味な音声に「怖すぎ!」と震えながらも興奮していた。すると、動画の最後、背後に立つ黒い影が画面いっぱいに映った瞬間、イヤホンから突然耳鳴りのような音が響いた。

    「……なんだよ、ビビらせやがって」

    しかし、その瞬間、彼の部屋の窓がカタカタと揺れ始めた。風もないのに、窓ガラスには無数の手形が浮かび上がる。高校生は恐怖で動けなくなったまま、窓を見つめた。

    やがて手形が消えると同時に、彼のスマホが勝手に点灯し、動画が再生され始める。停止ボタンを押しても反応しない。画面の中、例の廃屋が映し出されると、次の瞬間、自分の名前が壁に浮かび上がったのを目撃する。

    「嘘だろ……なんで俺の名前が……?」

    その夜を境に、彼は学校に来なくなった。

    恐怖を探る者

    ネットでは「廃屋の呪い」に関する考察や都市伝説を語る者が現れ始めた。あるYouTuberがさらに再生数を稼ごうと、動画を検証する企画を立ち上げた。

    「この廃屋の真相を暴きます! 実際に現場に行って、謎を解明してみせます!」

    動画は大きな注目を集め、放送当日は数十万人がリアルタイムで視聴していた。彼は現場に入り、動画の中で見た呪いの文字や部屋の状況を詳しく撮影していく。

    だが、ライブ配信の途中で突然カメラが激しく揺れ、画面が真っ暗になった。かすかに彼の叫び声が聞こえた後、配信は途絶えた。コメント欄は恐怖に満ちた視聴者の声で埋め尽くされた。

    「彼に何が起こったんだ?」
    「これはただの演出じゃない。マジでやばい!」

    その配信者もまた行方不明となり、警察が捜査に乗り出すが、廃屋には何の痕跡も残されていなかった。

    最後の動画

    その後も、「廃屋の呪い」はネットを通じて連鎖し続ける。最初に投稿された動画の再生数は1億を超え、廃屋に足を運ぶ者、恐怖体験を語る者、そして次々と消える者が後を絶たない。

    だがある日、謎のアカウントから新たな動画が投稿された。その動画は、初めての廃屋動画を最後まで再生した者にだけ表示されるという奇妙なものだった。

    動画の冒頭には、廃屋の薄暗い内部が映し出されている。そして次の瞬間、画面に現れるのは失踪した隆司や彼の仲間、さらにはこれまでの犠牲者たちの姿だった。彼らは何かに怯えた表情を浮かべ、無言でカメラを見つめている。

    最後に、真っ黒な背景に赤い文字が浮かび上がった。

    「逃げられない。これを見た君も、もうすぐだ。」

    動画はそこで終了するが、それを見た人々は次々と姿を消していった。

    今なお、ネットのどこかにその動画は存在している。再生ボタンを押してしまった者が、最後にどうなったのかを知る術はない。ただ1つ確かなのは、その呪いが終わることは決してないということだ。

  • 【短編小説】

    星空の手紙

    悠太が星に惹かれたのは、幼い頃に見た一枚の写真がきっかけだった。宇宙の奥深く、無数の星々が色鮮やかに輝く宇宙望遠鏡の画像。それを見た彼は思った。「この広大な世界に、僕たちはどれほど小さい存在なのだろう」と。

    それ以来、星空を見上げることが彼の習慣となり、趣味で始めた天体観測は次第に彼の日常の中心になった。都会から離れた山間の観測台を訪れるたび、悠太は星々と対話しているような感覚を覚えた。

    ある日の夜、いつもと同じように観測を続けていた悠太は、一際明るく輝く星を見つけた。地図にも載っておらず、記録にもないその星は、時折不規則に光を点滅させていた。まるでメッセージのようだと感じた悠太は、その星に目を凝らし、その点滅を細かく記録した。

    翌日、彼は解析を始めた。コンピュータにデータを入力し、点滅のパターンを解析すると、それはモールス信号に似た規則性を持っていることが分かった。メッセージは途切れ途切れだったが、こう読めた。
    「わたしはここにいる。」

    悠太は胸の鼓動が速くなるのを感じた。星が語りかけている?そんな馬鹿げた話があるのか?だが彼の中には、不思議と疑いよりも確信があった。次の夜も彼は観測台を訪れ、星の光を追った。

    解析を続ける中で、さらにいくつかの言葉が読み取れた。
    「あなたはわたしを見ているのですか?」
    「ここでずっと待っていました。」

    悠太はどうしても応えたくなった。しかし、どうやって星に返事を送ればいいのか分からない。試しに小さな光源を使って夜空にモールス信号を送ってみたが、星は何の変化も示さなかった。それでも彼は諦めなかった。

    数週間後のある夜、いつものように観測をしていると、望遠鏡のレンズが突然淡い光を放ち始めた。驚いた悠太が目を離した瞬間、光は部屋全体を満たし、彼の意識はどこか遠くへ引き寄せられるような感覚に包まれた。

    気がつくと、悠太は星空の中に立っていた。足元には何もなく、ただ無限に広がる光の海が広がっている。彼の周囲を漂う星々の光の粒が、やがてひとつに集まり、人の形を成した。

    「わたしは星の記憶。この宇宙に存在するすべての声を受け継ぐ存在です。」

    その声は優しく、どこか懐かしさを感じさせた。悠太は戸惑いながらも質問を投げかけた。
    「どうして僕に話しかけてきたんですか?」

    「あなたが星空を見つめ、私たちの声に耳を傾けたからです。多くの人々が空を見上げますが、本当にその奥にある意味を探ろうとする者は少ない。」

    「星の記憶」と名乗るその存在は、悠太に宇宙の歴史を語り始めた。星々の誕生と死、無数の文明が宇宙に芽生え、そして消えていったこと。光となって残った記憶が、今も星空の中に漂っていること。そしてそれらが宇宙を織り成す物語の一部であること。

    「だが、全ての光はやがて消え、闇に還ります。それは避けられない運命です。」

    悠太はその言葉に胸を締め付けられるような思いを抱いた。
    「それでも、僕たちがこうして光を見つめ、記憶を感じることで、少しでもその灯火を守れるんじゃないですか?」

    その言葉に「星の記憶」は小さく頷いたように見えた。
    「あなたのような存在がいることが、私たちに希望を与えます。どうか、この星空を忘れないで。」

    気がつくと、悠太は自室の観測台に戻っていた。夢だったのか?だが彼の手には、光の粒がひとつだけ残されていた。それは彼にとって、星々との邂逅が確かにあったことを示す証だった。

    その夜から、悠太の観測は単なる趣味ではなくなった。星空を見上げるたび、彼は宇宙に記された無数の記憶を感じ、そこに新たな物語を紡ごうと心に誓ったのだ。

    星空は変わらずそこにあり、いつでも彼を迎え入れてくれるようだった。

  • 【短編小説】

    消える山

    山間に住む写真家の陽介は、不思議な体験をしていた。
    近くの山を撮影すると、どうしても写真に山が映らないのだ。最初はカメラの不具合だと思い新しい機材を購入したが、結果は同じ。目の前にそびえる山は確かに存在しているのに、写真にはただの青空が写るだけだった。

    不安になった陽介は、地元の喫茶店で噂を耳にした。「あの山は、人を選ぶ山だ」と。地元では昔から、特定の人だけが山の異常を目にするという伝説があった。

    その喫茶店で陽介は、奇妙な老人と出会う。老人は皺だらけの手でゆっくりとコーヒーカップを傾けながら、陽介にこう言った。
    「お前さん、あの山に触れたな」

    陽介は驚いて頷く。
    老人は続けた。「あの山はな、もともと存在していない。ただ、人の欲望や恐れが形を作った幻のようなもんだ。そして、その山を見た者はやがて山に取り込まれる運命だ」

    老人の声はどこか淡々としていたが、陽介は背筋が凍るのを感じた。「取り込まれるってどういう意味ですか?」
    老人はにやりと笑い、「自分で確かめるといい」と言い残し、店を出ていった。

    その夜、陽介は夢を見た。夢の中で、彼は山を登っていた。山の空気は異様に重く、聞こえるのは自身の荒い息遣いだけ。頂上にたどり着いた瞬間、山が彼に語りかけてきた。
    「お前も私の一部になれ」

    陽介は目を覚ましたが、身体に違和感を覚えた。部屋の鏡を見ると、彼の瞳が黒く変色し、皮膚には苔のようなものが生えていた。恐怖に駆られた陽介はカメラを持ち、最後にもう一度山を撮影しようと決意した。

    翌朝、地元の人々は陽介が住む家を訪れたが、彼の姿はなく、残されていたのは奇妙な一枚の写真だった。そこには、以前はどこにも映らなかった山がくっきりと写っていた――ただし、その山の中腹には、木々に溶け込むように陽介そっくりの人影が見えたという。

    喫茶店の老人は、その写真を見ながら静かに微笑んだ。彼の目の奥にも、同じ黒い瞳が光っていたのだ。

  • 【短編小説17】

    幸せの配達人

    ハルオは、自分を「ついてない男」だと思っていた。

    転職に失敗してアルバイトを掛け持ちする日々。給料は少なく、服も古びたものばかり。人付き合いもうまくなく、いつも一人でコンビニ弁当を食べる生活。

    「俺がいるだけで空気が悪くなる気がするよ」

    彼は自分の存在価値を見出せず、ただ日々をやり過ごしていた。

    ある日、ハルオは荷物の配達のアルバイトを始めた。小さな運送会社の軽トラックに乗り、指定された住所に荷物を届ける仕事だ。「人と話す時間は短いし、ミスさえしなければ目立たないで済む」と考えて選んだ仕事だった。

    ところが、この仕事を始めてから奇妙なことが起こり始めた。

    最初の出来事は、町外れの小さな花屋だった。ハルオが届けたのは、珍しい蘭の花。それを受け取った老夫婦は満面の笑みを浮かべた。

    「ありがとう!これで、息子夫婦の結婚記念日に間に合うわ!」

    「いや、俺は運んだだけで……」と戸惑うハルオをよそに、老夫婦はお互いに喜びを語り合い、その場の空気がぱっと明るくなった。

    次に訪れたのは、学生寮だった。中から出てきた若い女性は、顔をこわばらせながら「待ちに待った教科書が届きましたか?」と尋ねた。

    「ええっと、これかな……?」

    女性が封筒を開けると、瞬く間にその顔が輝いた。「これで明日の試験に間に合う!ありがとう!」

    それからというもの、ハルオが配達に行く先々で、受け取る人たちは皆、どこかしら幸せそうな表情を浮かべた。

    やがて、ハルオは自分の仕事にある種の誇りを感じるようになった。

    「俺はただ荷物を届けてるだけなのに、みんなが喜んでくれる。これって、ちょっといい仕事かもな」

    そんなある日、ハルオは会社から「特別な荷物」を預けられた。それは、近所の古びたアパートに住む独居老人への配達だった。

    アパートに着くと、中から聞こえてきたのは小さな独り言だった。

    「もう誰も訪ねてこないな……私も、このまま消えるのかな」

    ハルオは荷物を届けると、思わず言った。「あの……俺がこの荷物を届けられてよかったです」

    老人は驚いた顔をして、「君が?」と問い返した。

    ハルオは肩をすくめて答えた。「俺、いつも何も特別なことなんてしてないんです。ただ運んでるだけなんですけど、なんだかみんな喜んでくれるんです」

    すると老人は、しみじみと言った。「それが一番素晴らしいんだよ。君は、みんなを幸せにする存在なんだな」

    その言葉が、ハルオの胸に深く染み入った。

    その夜、ハルオはふと自分の仕事を振り返った。荷物を運ぶという一見地味な仕事。それでも、自分の手で誰かを笑顔にできていた。それが少しだけ誇らしかった。

    次の日、彼は同僚の間でも明るい表情を見せ始めた。「何かいいことあったのか?」と聞かれるたび、ハルオは「いや、なんでもないけどさ」と笑った。

    ハルオ自身も気づかないうちに、彼の笑顔が周りの人々を明るくしていた。

    そして、彼は知らなかった――町のあちこちで、彼のことを「しあわせの配達人」と呼ぶ声が増えていることを。

    ハルオは、自分が誰かを幸せにしているという実感を持ち始めていたが、それがどうしてなのかは全く分かっていなかった。ただの偶然だろう――彼はそう思い込むようにしていた。

    しかし、ある日、会社に奇妙な手紙が届いた。それは、ハルオ宛の手紙だった。

    「ハルオ様へ」

    普段、客先から手紙が来ることなどない。それだけで十分に不思議だったが、さらに不可解なのはその内容だった。

    「あなたは特別な力を持っています。それは、あなた自身が意識していないものです。ただ運ぶだけで人々を幸せにできるのは、あなたが“しあわせの種”を届けているからなのです。
    この力は、あなたの祖先から受け継がれたものです。そして、それをどう使うかはあなた次第です。

    手紙には差出人の名前も連絡先もなかった。ただ、最後にこう書かれていた。

    「運び続けなさい。それが、あなたの使命です。」

    手紙を読んだハルオは頭を抱えた。「しあわせの種?祖先からの力?」そんなものが自分にあるなんて信じられなかった。だが、心のどこかで思い当たる節があった。

    「そういえば、昔から何となく、俺が誰かに何かを渡すと喜ばれることが多かった気がするな……」

    幼い頃、友達に貸した鉛筆一本でその友達が「テストで100点を取れた!」と喜んでいたことを思い出した。何気なくあげた飴玉が、落ち込んでいたクラスメイトを元気づけたこともあった。

    「あれが……俺の力だったのか?」

    半信半疑のまま、ハルオは配達を続けた。しかしその日、いつもとは違う出来事が起きた。

    ハルオが荷物を届けたのは、町で有名な雑貨店だった。そこにいたのは、最近元気のない様子で噂されていた店主の女性だった。

    彼女が受け取った荷物は、海外の工芸品だったらしい。最初は普通に受け取っていたが、ふとその箱を開けると目を見開いた。

    「このデザイン……私がずっと探していたもの!」

    それは、彼女の亡き夫が生前大切にしていたデザインにそっくりのものだったのだ。ハルオが届けたその品物を見て、彼女は涙ぐみながら微笑んだ。そしてこう言った。

    「あなたが運んでくれるものには、いつも不思議な幸せが詰まっている気がするのよね。まるで天使みたい」

    その言葉にハルオは立ち尽くした。

    家に帰ったハルオは、もう一度あの手紙を見返した。そして、思わずつぶやいた。

    「俺の力って、本当にあるのかもな……」

    その夜、彼は夢を見た。そこには穏やかな顔をした年老いた男性が現れた。

    「ハルオ、お前は私たちの血を引く特別な存在だよ。お前が運ぶものには“幸せの種”が宿る。だが、その種を本当に育てるのは、お前が相手に込める優しい気持ちだ。だから、自信を持ちなさい」

    目を覚ましたハルオは、これがただの夢ではない気がしていた。

    翌朝、ハルオは軽トラックに乗り込むと、空を見上げて思った。

    「誰かの幸せを運べるなら、それが俺の使命なんだな」

    その日、彼が配達した荷物にはまたも笑顔が広がった。彼が運ぶ“幸せの種”は、相手の心に届き、そこで花を咲かせていった。

    そして、そんな日々を重ねるうちに、ハルオ自身も幸せを感じられるようになっていた。

    彼はまだ知らない。この先、自分がどれほど多くの人々の人生を変えることになるのかを