カテゴリー: 短編小説

  • 【短編小説 予見】

    予見

    翔太には、不思議な力があった。

    それは、「少しだけ未来が見える」というもの。

    ただし、その能力は万能ではない。見る未来は数秒から数分先程度。しかも、いつ発動するかはわからず、不意にビジョンが脳裏をよぎるだけだった。

    子どもの頃は、この能力に悩まされた。転びそうな友達を事前に助けたら「なんでわかったの?」と気味悪がられたし、誰かがこっそりお菓子をつまみ食いするのを予知してしまい、逆に自分が疑われることもあった。

    「この力、あんまり役に立たないな……」

    そう思いながら大人になり、翔太はごく普通の会社員として働いていた。能力は日常生活のちょっとした場面で役立つこともあったが、劇的に人生が変わるようなことはなかった。

    ある日のこと。翔太は会社の帰り道、何気なく交差点を歩いていた。すると、突然頭の中に映像が流れ込んできた。

    「横断歩道を渡る自分。その瞬間、猛スピードのトラックが信号を無視して突っ込んでくる――」

    翔太はハッとして立ち止まり、すぐに横断歩道から一歩引いた。次の瞬間、予知通りにトラックが赤信号を無視して走り抜けていった。

    「危なかった……」

    もし能力がなかったら、確実に轢かれていただろう。初めて自分の力に救われた瞬間だった。

    それ以来、翔太はこの力を少しでも役立てられないかと考え始めた。とはいえ、未来を大きく変えられるほどの力ではない。できるのは「ちょっとした先の出来事を回避する」程度だ。

    しかし、ある日、大きな転機が訪れた。

    翔太はカフェでコーヒーを飲んでいると、不意にビジョンがよぎった。

    「目の前に座っている女性がスマホを落とし、それを拾おうとしてカバンの中身をぶちまける」

    目の前にいるのは、どこか上品な雰囲気の女性だった。翔太は少し迷ったが、思い切って声をかけた。

    「あの……すみません、スマホ、落としそうですよ。」

    女性は驚いた顔をしたが、次の瞬間、本当にスマホを落としそうになり、慌てて掴んだ。

    「あ、ありがとう! よくわかったね!」

    「いや、なんとなく……」

    翔太は適当にごまかした。

    それが、未来の妻・麻美との出会いだった。

    翔太の能力は、彼の人生を劇的に変えたわけではなかった。ただ、ちょっとした危険を避けたり、人を助けたり、素敵な出会いを生んだりする程度のものだった。

    それでも、彼はこう思うようになった。

    「未来が見えるのは、ちょっとした幸運を掴むためのものなのかもしれない。」

    そして数年後、翔太は幸せな家庭を築きながら、今日もふとした未来を見つつ、穏やかに生きている。

  • 【短編小説 リセット】

    リセット

    大輝は、毎朝同じ夢を見て目を覚ます。夢の中では、自分が何か重要なことを忘れないように必死でメモを取っている。だが、目を開けた瞬間、その内容を思い出すことはできない。

    彼には奇妙な秘密があった。それは、毎日記憶が完全にリセットされてしまうことだ。

    「昨日、俺は何をしていた?」

    大輝は目覚めたばかりのベッドで呟く。しかし、その問いに答えるものは誰もいない。枕元にはノートとペンが置かれており、「今日は仕事が休みだ。ゆっくり休め」と書かれたメモがあった。どうやらこれは、昨日の自分が書いたものらしい。

    大輝の記憶は、一日の終わりにすべて消えてしまう。その代わり、彼はノートに自分の一日を詳細に記録し、それを毎朝読み返すことでなんとか生活を保っていた。

    「今日は何をするんだろう?」

    ノートをめくると、最近の彼が仕事を辞め、専念している「計画」が記されていた。それは、「記憶がリセットされる原因を突き止める」というものだった。

    その日、大輝は図書館に向かい、医学書や心理学の本を手当たり次第に漁った。しかし、特異な記憶喪失の事例について記された本は見つからない。

    「どうして俺だけ、こんなことになったんだ……」

    帰宅途中、彼は不意に奇妙な既視感を覚えた。同じような道を以前にも歩いた気がする。だが、それはいつのことなのか思い出せない。

    ふと目の前に現れた街角の喫茶店。大輝はそこに引き寄せられるように足を踏み入れた。

    「いらっしゃいませ。」

    店内には年配のマスターが一人で切り盛りしているようだった。大輝が席につくと、マスターがほほえみながら言った。

    「また来てくれたんだね。」

    「え?」

    大輝は首をかしげた。

    「初めて来たと思うんですけど……」

    マスターは困ったように笑った。

    「そう言うだろうね。でも君、ここに何度も来てるんだよ。いつも同じ質問をして帰っていくんだ。」

    「同じ質問?」

    「君の記憶の話さ。」

    マスターの言葉に驚いた大輝は、彼から詳しい話を聞くことにした。どうやら、大輝はこの店を何度も訪れており、自分の記憶がリセットされる原因について尋ねていたらしい。そしてそのたびに、マスターは次のような答えをしていた。

    「それは、君が選んだことなんだ。」

    「選んだ? 俺が?」

    「詳しいことは話せない。でも、君は何かを守るために、そうする道を選んだんだよ。」

    「何かを守る?」

    マスターはそれ以上語ろうとはせず、ただ一言だけ付け加えた。

    「答えは、君自身が知っているはずだ。」

    その夜、大輝は家に帰り、自分のノートを改めて読み返した。何度も繰り返される同じような記録の中に、ある一文が目に留まった。

    「何かを守るために、この記憶を犠牲にした。」

    「やっぱり……俺が自分で決めたことなのか?」

    さらにノートを読み進めていくと、あるページに他とは違う内容が書かれていた。

    「次に思い出すべきは、明子。」

    「明子……誰だ?」

    翌日、大輝は明子という名前を手掛かりに調べ始めた。そして、彼女がとある介護施設で暮らしていることを突き止めた。

    施設を訪れると、車椅子に座った老婦人が目の前に現れた。大輝は彼女に会った覚えはなかったが、なぜか強く惹かれるものを感じた。

    「お会いしたこと、ありますか?」

    そう尋ねると、明子は優しく微笑んだ。

    「あなた……健ちゃん?」

    「健ちゃん?」

    「私の息子……でも、もう亡くなってしまったの。」

    その話を聞いて、大輝の頭の中に断片的な記憶が蘇った。彼は明子の息子・健一の親友であり、健一が亡くなったあと、明子の面倒を見ようと決心したことを。

    そして、記憶がリセットされる症状は、ある実験的な治療を受けた結果だった。大輝は自分の辛い過去を忘れる代わりに、日々明子を訪れて幸せな時間を過ごすことを選んだのだ。

    「忘れてしまっても……毎日あなたに会えてよかった。」

    明子の言葉に、大輝は涙が止まらなかった。その日もノートに新たな一文を記した。

    「忘れてもいい。ただ、大切な人を守る。それだけでいい。」

    そして翌朝、大輝はまた目を覚まし、ノートを手に取る。そこには、こう書かれていた。

    「今日も明子に会いに行こう。」

  • 【短編小説 先祖】

    ご先祖様

    優一は平凡な会社員だった。仕事はきついがやりがいも少なく、上司は厳しい。最近は疲れが顔に出るほどで、家に帰ると泥のように眠る毎日だった。

    そんな彼の生活に転機が訪れたのは、田中家の古びた仏壇がきっかけだった。

    ある土曜日、優一は実家の片付けを手伝うため、田舎に帰省していた。優一の両親は数年前に他界しており、今は誰も住んでいない家がぽつんと残されている。

    「まあ、そろそろ処分しなきゃな……」

    そう思いながら、使われなくなった家具や古い写真を整理していると、部屋の隅に古びた仏壇が目に入った。

    「まだこんなところにあったのか……」

    仏壇は何年も放置されていたのだろう。埃をかぶり、扉は少し歪んでいた。

    優一はふと中を覗き込んだ。仏壇には位牌や小さな香炉が置かれ、見覚えのない古い巻物が一緒に収められていた。

    「こんなもの、前からあったかな?」

    不思議に思いつつ、優一は巻物を手に取った。それは驚くほど軽く、ぼんやりとした文字が書かれている。

    「なんだ、これ……?」

    文字は達筆すぎて読めないが、妙に惹きつけられるものがあった。その瞬間、ふわりと香ばしい香りが漂い、背後から不思議な気配を感じた。

    「よくぞ気づいてくれたのう。」

    優一は驚いて振り返った。そこには和服姿の老人が立っていた。

    「だ、誰ですか!? いつの間に家に入ったんですか!」

    「慌てるでない。わしは田中家の先祖、田中源左衛門じゃ。」

    「……は?」

    優一は完全に言葉を失った。目の前の老人は透けているように見え、足元がない。幽霊以外の何物でもない。

    「信じられんかもしれんが、わしはお前の先祖だ。この仏壇には特別な力が宿っておる。お前が巻物を手に取ったことで、わしが目覚めたというわけじゃ。」

    最初は信じられなかった優一も、源左衛門の落ち着いた語り口と奇妙な説得力に押され、半ば強引に話を聞くことにした。

    「で、俺をどうしたいんですか?」

    「いや、むしろお前がどうしたいのかを聞きたい。わしは田中家の子孫を見守る使命を持っているが、最近のお前を見ておると、少々疲れているように見えたのでな。」

    優一はその言葉に少しだけ驚いた。

    「まあ、確かに仕事でいっぱいいっぱいですよ。でも、それが普通っていうか……別に何か変えられるわけでもないし。」

    源左衛門は眉をひそめた。

    「それはお前が田中家の力を知らぬからじゃ。」

    源左衛門は、田中家には「困難を乗り越える力」を受け継ぐ秘密があると語り始めた。仏壇はその力を守る役目を果たしており、先祖たちの知恵や加護が必要なときにのみ姿を現すのだという。

    「お前にとっての助けとなるものを一つ授けよう。ただし、使い方を間違えれば自らを滅ぼすことにもなりかねん。覚悟はあるか?」

    優一は半信半疑ながらもうなずいた。

    「わかった。何をすればいいんですか?」

    源左衛門は手をかざすと、優一の前に一対の小さな鍵を差し出した。それは古びた金色の鍵で、細かい模様が彫られていた。

    「これが田中家の『幸運の鍵』じゃ。この鍵を使えば、難題を解決する手助けをしてくれる。」

    「こんな小さな鍵で?」

    「大切なのは鍵そのものではない。お前がその鍵をどう使うかだ。」

    源左衛門はそう言い残すと、ふっと消えてしまった。

    優一は半信半疑ながらも鍵を持ち帰った。

    その翌日、会社で大きなトラブルが発生した。重要なプロジェクトでデータが消失し、上司から厳しい叱責を受けることになったのだ。

    「田中、お前が責任を取れ!」

    完全に窮地に立たされた優一は、ふとポケットの中の鍵を思い出した。

    「……まさかね。」

    しかし、すがるような思いで鍵を握りしめた瞬間、不思議な感覚が彼を包んだ。

    その日、優一は奇跡的なひらめきを得て、失われたデータを復元する方法を思いついた。翌日にはプロジェクトが無事に完了し、上司からは感謝の言葉を受けることに。

    「田中、お前、よくやったな!」

    信じられないような結果に、優一は呆然とした。

    その後も、優一は鍵を握るたびに小さな幸運に恵まれた。仕事のトラブルは減り、同僚からの信頼も増し、いつしか職場で頼りにされる存在になっていった。

    「先祖の力って、本当にあるのかもしれない……。」

    しかし、源左衛門の言葉を思い出し、優一は慎重に鍵を使うよう心掛けた。

    ある日、ふと気づくと、鍵がポケットの中から消えていた。慌てて探したが、どこにも見当たらない。

    その夜、優一の夢に源左衛門が現れた。

    「鍵はお前の役目を終えた。これからは己の力で道を切り開くのじゃ。」

    「でも、まだ自分にできるかどうか……」

    「大丈夫じゃ。お前にはもう、田中家の血が流れる者としての自信が備わっておる。困難に直面したとき、わしら先祖たちが見守っておることを忘れるでない。」

    目が覚めた優一は、不思議な安堵感に包まれていた。そしてその日から、鍵なしでも彼は自分の力で物事に立ち向かえるようになった。

    ご先祖様からの贈り物は消えたが、その加護は彼の心にしっかりと刻まれていたのだ。

  • 【短編小説 奇跡】

    小さな奇跡

    ある山奥の小さな村に、古い時計屋があった。時計屋は村で唯一の商店で、年老いた店主の新井修一が一人で切り盛りしていた。修一は昔、都会で腕の良い職人として名を馳せていたが、妻を亡くしたのを機に静かな田舎暮らしを選んだのだ。

    村にはほとんど人がいない。若者は都会に出て行き、残されたのは高齢者ばかり。店に客が来ることもめったにない。それでも修一は、毎日時計を磨き、小さな作業台で修理をしながら静かな日々を過ごしていた。

    ある日、修一のもとに少年が訪れた。その少年、健太は小学校の3年生で、この村に住む数少ない子どもの一人だった。

    「じいちゃん、この時計、直せる?」

    健太が手渡したのは、ボロボロの懐中時計だった。

    「これは……ずいぶん古い時計だな。どこで手に入れたんだ?」

    「家の物置で見つけたんだ。おじいちゃんが昔使ってたやつらしいけど、止まっちゃってるんだよ。」

    修一は懐中時計を手に取り、慎重に観察した。表面には傷が多く、長い間放置されていたようだったが、職人の目にはそれが精巧な作りであることがすぐに分かった。

    「面白い。やってみよう。」

    修一はその日から懐中時計の修理に取り掛かった。しかし、時計の内部はサビだらけで、一筋縄ではいかない状態だった。部品のいくつかは完全に壊れており、新しいものを作らなければならなかった。

    それでも修一は、どこか嬉しそうに作業を続けた。この村で仕事を頼まれること自体が久しぶりだったからだ。

    健太は修一の店に毎日顔を出した。

    「まだ直らないの?」

    「時計の修理は時間がかかるんだ。焦るな。」

    「時間がかかるって……時計なのに?」

    その一言に修一は思わず笑ってしまった。

    1週間後、ついに時計が動き出した。

    「見ろ、直ったぞ。」

    修一が健太に時計を手渡すと、少年の顔がぱっと明るくなった。

    「すごい! 本当に動いてる!」

    健太は嬉しそうに時計を見つめた。だが、その様子を見ているうちに修一はふと疑問に思った。

    「そういえば、どうしてこの時計を直したかったんだ?」

    健太は少し恥ずかしそうに答えた。

    「おじいちゃんが、昔この時計を大事にしてたっておばあちゃんが言ってたんだ。おじいちゃん、最近元気ないから、これを見せたら喜ぶかなって思って。」

    健太のおじいちゃんは数年前に大病を患い、今では家に閉じこもりがちになっていた。そんな祖父を元気づけたいという健太の思いを聞き、修一は胸が温かくなるのを感じた。

    「いい心がけだ。きっと喜ぶぞ。」

    翌日、健太は修一から受け取った懐中時計を持って祖父のもとへ行った。

    「おじいちゃん、これ覚えてる?」

    祖父はゆっくりと時計を手に取り、驚いた表情を浮かべた。

    「これ……まだあったのか。もう動かないと思ってたのに……。」

    時計を見つめる祖父の目には、涙が浮かんでいた。そして、それをじっと見つめる健太の顔にも、どこか満足げな表情が浮かんでいた。

    その話を聞いた村人たちは、久しぶりに明るい話題ができたことを喜んだ。修一の店にも少しずつ人が訪れるようになり、「昔の置き時計を直してほしい」「父が使っていた腕時計を動くようにしてほしい」といった依頼が舞い込むようになった。

    修一は忙しくなったが、それが心地よかった。村の人々の生活に、少しだけでも役立てるのが嬉しかったのだ。

    それから数か月後、修一の店の看板の横には、新しいプレートがかかっていた。

    「時間をつなぐ時計屋」

    村の人々はその看板を見るたびに、小さな奇跡を思い出して微笑んだ。そして健太もまた、修一の店を訪れては「今日は何してるの?」と興味津々に作業を覗き込むのが日課になった。

    村の静かな日常は、少しだけ賑やかになった。それは時計の音が響くようになったからか、それとも人々の心がつながったからか。どちらにせよ、この村には確かに小さな奇跡が起こったのだった。

  • 【短編小説】

    星空の手紙

    悠太が星に惹かれたのは、幼い頃に見た一枚の写真がきっかけだった。宇宙の奥深く、無数の星々が色鮮やかに輝く宇宙望遠鏡の画像。それを見た彼は思った。「この広大な世界に、僕たちはどれほど小さい存在なのだろう」と。

    それ以来、星空を見上げることが彼の習慣となり、趣味で始めた天体観測は次第に彼の日常の中心になった。都会から離れた山間の観測台を訪れるたび、悠太は星々と対話しているような感覚を覚えた。

    ある日の夜、いつもと同じように観測を続けていた悠太は、一際明るく輝く星を見つけた。地図にも載っておらず、記録にもないその星は、時折不規則に光を点滅させていた。まるでメッセージのようだと感じた悠太は、その星に目を凝らし、その点滅を細かく記録した。

    翌日、彼は解析を始めた。コンピュータにデータを入力し、点滅のパターンを解析すると、それはモールス信号に似た規則性を持っていることが分かった。メッセージは途切れ途切れだったが、こう読めた。
    「わたしはここにいる。」

    悠太は胸の鼓動が速くなるのを感じた。星が語りかけている?そんな馬鹿げた話があるのか?だが彼の中には、不思議と疑いよりも確信があった。次の夜も彼は観測台を訪れ、星の光を追った。

    解析を続ける中で、さらにいくつかの言葉が読み取れた。
    「あなたはわたしを見ているのですか?」
    「ここでずっと待っていました。」

    悠太はどうしても応えたくなった。しかし、どうやって星に返事を送ればいいのか分からない。試しに小さな光源を使って夜空にモールス信号を送ってみたが、星は何の変化も示さなかった。それでも彼は諦めなかった。

    数週間後のある夜、いつものように観測をしていると、望遠鏡のレンズが突然淡い光を放ち始めた。驚いた悠太が目を離した瞬間、光は部屋全体を満たし、彼の意識はどこか遠くへ引き寄せられるような感覚に包まれた。

    気がつくと、悠太は星空の中に立っていた。足元には何もなく、ただ無限に広がる光の海が広がっている。彼の周囲を漂う星々の光の粒が、やがてひとつに集まり、人の形を成した。

    「わたしは星の記憶。この宇宙に存在するすべての声を受け継ぐ存在です。」

    その声は優しく、どこか懐かしさを感じさせた。悠太は戸惑いながらも質問を投げかけた。
    「どうして僕に話しかけてきたんですか?」

    「あなたが星空を見つめ、私たちの声に耳を傾けたからです。多くの人々が空を見上げますが、本当にその奥にある意味を探ろうとする者は少ない。」

    「星の記憶」と名乗るその存在は、悠太に宇宙の歴史を語り始めた。星々の誕生と死、無数の文明が宇宙に芽生え、そして消えていったこと。光となって残った記憶が、今も星空の中に漂っていること。そしてそれらが宇宙を織り成す物語の一部であること。

    「だが、全ての光はやがて消え、闇に還ります。それは避けられない運命です。」

    悠太はその言葉に胸を締め付けられるような思いを抱いた。
    「それでも、僕たちがこうして光を見つめ、記憶を感じることで、少しでもその灯火を守れるんじゃないですか?」

    その言葉に「星の記憶」は小さく頷いたように見えた。
    「あなたのような存在がいることが、私たちに希望を与えます。どうか、この星空を忘れないで。」

    気がつくと、悠太は自室の観測台に戻っていた。夢だったのか?だが彼の手には、光の粒がひとつだけ残されていた。それは彼にとって、星々との邂逅が確かにあったことを示す証だった。

    その夜から、悠太の観測は単なる趣味ではなくなった。星空を見上げるたび、彼は宇宙に記された無数の記憶を感じ、そこに新たな物語を紡ごうと心に誓ったのだ。

    星空は変わらずそこにあり、いつでも彼を迎え入れてくれるようだった。

  • 【短編小説】

    消える山

    山間に住む写真家の陽介は、不思議な体験をしていた。
    近くの山を撮影すると、どうしても写真に山が映らないのだ。最初はカメラの不具合だと思い新しい機材を購入したが、結果は同じ。目の前にそびえる山は確かに存在しているのに、写真にはただの青空が写るだけだった。

    不安になった陽介は、地元の喫茶店で噂を耳にした。「あの山は、人を選ぶ山だ」と。地元では昔から、特定の人だけが山の異常を目にするという伝説があった。

    その喫茶店で陽介は、奇妙な老人と出会う。老人は皺だらけの手でゆっくりとコーヒーカップを傾けながら、陽介にこう言った。
    「お前さん、あの山に触れたな」

    陽介は驚いて頷く。
    老人は続けた。「あの山はな、もともと存在していない。ただ、人の欲望や恐れが形を作った幻のようなもんだ。そして、その山を見た者はやがて山に取り込まれる運命だ」

    老人の声はどこか淡々としていたが、陽介は背筋が凍るのを感じた。「取り込まれるってどういう意味ですか?」
    老人はにやりと笑い、「自分で確かめるといい」と言い残し、店を出ていった。

    その夜、陽介は夢を見た。夢の中で、彼は山を登っていた。山の空気は異様に重く、聞こえるのは自身の荒い息遣いだけ。頂上にたどり着いた瞬間、山が彼に語りかけてきた。
    「お前も私の一部になれ」

    陽介は目を覚ましたが、身体に違和感を覚えた。部屋の鏡を見ると、彼の瞳が黒く変色し、皮膚には苔のようなものが生えていた。恐怖に駆られた陽介はカメラを持ち、最後にもう一度山を撮影しようと決意した。

    翌朝、地元の人々は陽介が住む家を訪れたが、彼の姿はなく、残されていたのは奇妙な一枚の写真だった。そこには、以前はどこにも映らなかった山がくっきりと写っていた――ただし、その山の中腹には、木々に溶け込むように陽介そっくりの人影が見えたという。

    喫茶店の老人は、その写真を見ながら静かに微笑んだ。彼の目の奥にも、同じ黒い瞳が光っていたのだ。

  • 【短編小説17】

    幸せの配達人

    ハルオは、自分を「ついてない男」だと思っていた。

    転職に失敗してアルバイトを掛け持ちする日々。給料は少なく、服も古びたものばかり。人付き合いもうまくなく、いつも一人でコンビニ弁当を食べる生活。

    「俺がいるだけで空気が悪くなる気がするよ」

    彼は自分の存在価値を見出せず、ただ日々をやり過ごしていた。

    ある日、ハルオは荷物の配達のアルバイトを始めた。小さな運送会社の軽トラックに乗り、指定された住所に荷物を届ける仕事だ。「人と話す時間は短いし、ミスさえしなければ目立たないで済む」と考えて選んだ仕事だった。

    ところが、この仕事を始めてから奇妙なことが起こり始めた。

    最初の出来事は、町外れの小さな花屋だった。ハルオが届けたのは、珍しい蘭の花。それを受け取った老夫婦は満面の笑みを浮かべた。

    「ありがとう!これで、息子夫婦の結婚記念日に間に合うわ!」

    「いや、俺は運んだだけで……」と戸惑うハルオをよそに、老夫婦はお互いに喜びを語り合い、その場の空気がぱっと明るくなった。

    次に訪れたのは、学生寮だった。中から出てきた若い女性は、顔をこわばらせながら「待ちに待った教科書が届きましたか?」と尋ねた。

    「ええっと、これかな……?」

    女性が封筒を開けると、瞬く間にその顔が輝いた。「これで明日の試験に間に合う!ありがとう!」

    それからというもの、ハルオが配達に行く先々で、受け取る人たちは皆、どこかしら幸せそうな表情を浮かべた。

    やがて、ハルオは自分の仕事にある種の誇りを感じるようになった。

    「俺はただ荷物を届けてるだけなのに、みんなが喜んでくれる。これって、ちょっといい仕事かもな」

    そんなある日、ハルオは会社から「特別な荷物」を預けられた。それは、近所の古びたアパートに住む独居老人への配達だった。

    アパートに着くと、中から聞こえてきたのは小さな独り言だった。

    「もう誰も訪ねてこないな……私も、このまま消えるのかな」

    ハルオは荷物を届けると、思わず言った。「あの……俺がこの荷物を届けられてよかったです」

    老人は驚いた顔をして、「君が?」と問い返した。

    ハルオは肩をすくめて答えた。「俺、いつも何も特別なことなんてしてないんです。ただ運んでるだけなんですけど、なんだかみんな喜んでくれるんです」

    すると老人は、しみじみと言った。「それが一番素晴らしいんだよ。君は、みんなを幸せにする存在なんだな」

    その言葉が、ハルオの胸に深く染み入った。

    その夜、ハルオはふと自分の仕事を振り返った。荷物を運ぶという一見地味な仕事。それでも、自分の手で誰かを笑顔にできていた。それが少しだけ誇らしかった。

    次の日、彼は同僚の間でも明るい表情を見せ始めた。「何かいいことあったのか?」と聞かれるたび、ハルオは「いや、なんでもないけどさ」と笑った。

    ハルオ自身も気づかないうちに、彼の笑顔が周りの人々を明るくしていた。

    そして、彼は知らなかった――町のあちこちで、彼のことを「しあわせの配達人」と呼ぶ声が増えていることを。

    ハルオは、自分が誰かを幸せにしているという実感を持ち始めていたが、それがどうしてなのかは全く分かっていなかった。ただの偶然だろう――彼はそう思い込むようにしていた。

    しかし、ある日、会社に奇妙な手紙が届いた。それは、ハルオ宛の手紙だった。

    「ハルオ様へ」

    普段、客先から手紙が来ることなどない。それだけで十分に不思議だったが、さらに不可解なのはその内容だった。

    「あなたは特別な力を持っています。それは、あなた自身が意識していないものです。ただ運ぶだけで人々を幸せにできるのは、あなたが“しあわせの種”を届けているからなのです。
    この力は、あなたの祖先から受け継がれたものです。そして、それをどう使うかはあなた次第です。

    手紙には差出人の名前も連絡先もなかった。ただ、最後にこう書かれていた。

    「運び続けなさい。それが、あなたの使命です。」

    手紙を読んだハルオは頭を抱えた。「しあわせの種?祖先からの力?」そんなものが自分にあるなんて信じられなかった。だが、心のどこかで思い当たる節があった。

    「そういえば、昔から何となく、俺が誰かに何かを渡すと喜ばれることが多かった気がするな……」

    幼い頃、友達に貸した鉛筆一本でその友達が「テストで100点を取れた!」と喜んでいたことを思い出した。何気なくあげた飴玉が、落ち込んでいたクラスメイトを元気づけたこともあった。

    「あれが……俺の力だったのか?」

    半信半疑のまま、ハルオは配達を続けた。しかしその日、いつもとは違う出来事が起きた。

    ハルオが荷物を届けたのは、町で有名な雑貨店だった。そこにいたのは、最近元気のない様子で噂されていた店主の女性だった。

    彼女が受け取った荷物は、海外の工芸品だったらしい。最初は普通に受け取っていたが、ふとその箱を開けると目を見開いた。

    「このデザイン……私がずっと探していたもの!」

    それは、彼女の亡き夫が生前大切にしていたデザインにそっくりのものだったのだ。ハルオが届けたその品物を見て、彼女は涙ぐみながら微笑んだ。そしてこう言った。

    「あなたが運んでくれるものには、いつも不思議な幸せが詰まっている気がするのよね。まるで天使みたい」

    その言葉にハルオは立ち尽くした。

    家に帰ったハルオは、もう一度あの手紙を見返した。そして、思わずつぶやいた。

    「俺の力って、本当にあるのかもな……」

    その夜、彼は夢を見た。そこには穏やかな顔をした年老いた男性が現れた。

    「ハルオ、お前は私たちの血を引く特別な存在だよ。お前が運ぶものには“幸せの種”が宿る。だが、その種を本当に育てるのは、お前が相手に込める優しい気持ちだ。だから、自信を持ちなさい」

    目を覚ましたハルオは、これがただの夢ではない気がしていた。

    翌朝、ハルオは軽トラックに乗り込むと、空を見上げて思った。

    「誰かの幸せを運べるなら、それが俺の使命なんだな」

    その日、彼が配達した荷物にはまたも笑顔が広がった。彼が運ぶ“幸せの種”は、相手の心に届き、そこで花を咲かせていった。

    そして、そんな日々を重ねるうちに、ハルオ自身も幸せを感じられるようになっていた。

    彼はまだ知らない。この先、自分がどれほど多くの人々の人生を変えることになるのかを

  • 【短編小説16】

    明日の君へ

    ショウタは目を覚ました。目の前に広がるのは、見慣れた自分の部屋。外は快晴で、鳥のさえずりが聞こえる。

    「今日は大事なプレゼンの日だ」

    彼はスーツを着込み、忘れ物がないか確認して家を出た。道を急いで歩く途中、ふと空を見上げると、大きな飛行船が浮かんでいた。派手な広告が描かれたそれを眺めながら、ショウタは思った。

    「そういえば、飛行船なんて久しぶりに見たな」

    だが、その瞬間、背後から自転車が突っ込んできた。避ける間もなく、衝撃が全身を襲い――

    ショウタは目を覚ました。目の前には、見慣れた自分の部屋が広がっている。外は快晴で、鳥のさえずりが聞こえる。

    「え?」

    彼は混乱した。確かに、自転車にぶつかって倒れたはずだ。それなのに、また朝に戻っている。

    「夢でも見たのか?」

    気を取り直して家を出たショウタは、また同じ風景を歩いた。そして、飛行船を見上げると、再び背後から自転車が突っ込んできた。

    「危ない!」

    彼は咄嗟に飛び退いた。だが、その先でバランスを崩し、電柱に頭をぶつけて倒れた。

    ショウタは目を覚ました。やはり、目の前には自分の部屋。

    「これは……何かがおかしいぞ」

    彼は一日が繰り返されていることに気づいた。どうやら、どんな行動をしても、必ず命を落として朝に戻る。何十回、何百回とループを繰り返すうち、彼は次第に疲れ果てていった。

    「もう、どうすればいいんだ……」

    そんなある日、ショウタはループの中で一人の女性と出会った。交差点で偶然ぶつかった彼女は、優しい笑顔を浮かべて「ごめんなさい」と頭を下げた。その時だけは、何故かショウタは死ぬこともなく、穏やかな夕方を迎えることができた。

    「もしかして、彼女が……?」

    翌朝、ショウタはその女性を探すため、同じ道を歩いた。そして再び交差点で彼女と出会った。

    「すみません、少しだけお話できますか?」

    突然のお願いに驚きながらも、彼女は笑顔で応じた。話をするうちに、彼女の名前がユカだと知り、偶然にも二人が同じビルで働いていることがわかった。ショウタは、彼女と過ごす時間が増えるごとに、ループの終わりが少しずつ見えてきた気がした。

    ある日、ユカと一緒に夕焼けを見ている時、ショウタはふと気づいた。

    「今日一日……ループしなかった」

    彼女と過ごす中で、ショウタの心に変化が生まれていた。これまでは自分のことばかり考え、プレゼンや成功ばかりを追い求めていたが、彼女との時間が自分にとって何よりも大切だと思えるようになったのだ。

    その夜、ショウタは深い眠りについた。そして次に目を覚ました時、ループは終わりを迎えていた。

    ユカと共に出勤しながら、ショウタはふと思った。「人生は一日一日を丁寧に生きることが大切なんだ」と。

    飛行船が青空をゆっくりと横切るのを眺めながら、彼は微笑んだ。そして、手を握るユカの存在を強く感じた。

    ショウタがループから解放されるきっかけとなったユカ。しかし、彼女がなぜそんな特別な存在になったのか――その答えは、ショウタが何度も繰り返した一日を思い返す中で見えてきた。

    ユカと初めて出会った交差点。その場所は、ショウタがループの中でいつも「誰にも気に留められず通り過ぎていた場所」だった。道を急ぐショウタは、すれ違う人々を一切意識せず、自分の目的にだけ集中していたのだ。だが、ユカとの偶然の接触が、彼の心に「誰かとつながること」の大切さを教えたのだった。

    ユカ自身もまた、このループに関わる「特別な存在」だった。彼女はショウタと同じように孤独を抱え、日々の生活を淡々と送っていた。実は、ショウタがループしていた同じ日、ユカもまた何かを「繰り返していた」。

    その繰り返しの原因は、「心の穴」だった。彼女は仕事に追われる毎日の中で、本当に大切なものを見失っていた。笑顔を見せても心の奥では空虚を感じており、誰かと本当の意味でつながることを恐れていたのだ。

    二人が交差点で出会った瞬間、ショウタとユカの「欠けた部分」が偶然にも噛み合った。ショウタがユカと話し、彼女の笑顔を心から大切だと感じたことで、彼自身の孤独と自己中心的な生き方が変化を遂げた。そして、ユカもまたショウタの優しさに触れる中で、自分の殻を破り始めた。

    「ループは、僕たち二人のためにあったんだ」

    ショウタはそう確信した。誰にも気づかれずに孤独を抱えて生きる二人が、互いの存在を見つけ、心を通わせたこと。それこそが、ループを終わらせる鍵だったのだ。

    ユカがキーパーソンになったのは、ショウタが「誰かを大切にしたい」と思うきっかけを与える存在であり、同時に彼女自身もその変化を必要としていたからだった。

    数日後、ショウタはループが終わった世界で
    ユカに会いに行った。

    「不思議な話だけど、君と出会えて本当に良かった。僕は君のおかげで、自分が何を大切にすべきかを見つけられたんだ」

    ユカは微笑みながら答えた。「私も同じよ。あなたと出会って、毎日が特別なものだと気づけたの」

    二人は一緒に青空を見上げた。飛行船がゆっくりと空を進むのを眺めながら、ショウタは心の中でそっとつぶやいた。

    「この世界は、ループの中で学んだことを忘れずに生きていくためにあるんだな」

    そして二人は、前に進み始めた。
    未来を共に歩むために。

  • 【短編小説13】

    お裾分け

    ある地方の小さな町に住むタカシは、昼は工場で働き、夜は趣味の手品を練習するのが日課だった。家に帰ると、トランプやコインを手に取り、鏡の前で黙々と技を磨いていたが、披露する機会は一度もなかった。

    「どうせ誰も見たがらないだろうし…」
    そう言ってタカシはため息をつきながら、手品を趣味の範囲に留めていた。

    ある日、タカシが町の商店街を歩いていると、顔なじみのパン屋のおじさんが困った顔をしていた。
    「どうしたんですか?」とタカシが聞くと、おじさんはため息をついた。
    「今日の売れ残りのパンが多くてね。捨てるのももったいないし、誰かに食べてもらいたいんだけど…」

    タカシはふと手品の練習で使っていた小さなトランプを思い出した。彼はおじさんにパンを少し分けてもらい、通りにいる子どもたちに手品を見せてみることにした。
    「みんな、タダでパンがもらえるけど、条件があるよ。僕の手品を見てくれたらね!」

    子どもたちは目を輝かせて集まった。タカシがトランプを使って見せた手品はシンプルだったが、子どもたちは大喜びし、笑顔でパンを受け取った。タカシはその光景を見て、心が温かくなるのを感じた。

    するとその様子を見ていた野菜屋の夫婦が声をかけてきた。「うちも売れ残りがあるんだけど、もしよかったら使ってくれないかい?」

    タカシは野菜も分けてもらい、次の日は商店街の広場で小さなショーを開いた。最初は子どもたちだけだったが、やがて近所の大人たちも集まり、笑い声が広がった。そして、ショーが終わるとタカシはこう言った。
    「みんな、良かったら、この野菜を持って帰ってね!」

    それから数週間、タカシのショーは商店街の名物になった。花屋が余った花束を提供し、果物屋がフルーツを持ってきた。パン屋のおじさんは、ショーの合間に売れるパンが増えたと喜んだ。商店街全体が笑顔に包まれ、町中の人々が次第に集まるようになった。

    ある日、一人の女性がタカシに声をかけた。
    「あなたのおかげで、こんなに町が明るくなったわ。手品がこんなにも人を幸せにするなんて、知らなかった。」
    タカシは照れくさそうに笑いながら答えた。
    「いや、僕はただのきっかけです。幸せはみんなが持ち寄ったものですよ。」

    それ以来、タカシは町中で「笑顔の手品師」と呼ばれるようになった。彼の手品はいつも同じくらいシンプルだが、そこから広がる幸せの輪はどんどん大きくなっていった。

    タカシが商店街で手品を始めてから、何十年も経った。若者だった彼も今ではすっかり年老いて、腰が少し曲がり、手も昔ほど器用には動かなくなった。それでも、商店街の広場で手品を披露することは、彼の生きがいであり、町の人々の楽しみでもあった。

    しかしある日、タカシはそっと引退を決めた。
    「もう十分やっただろう。そろそろ若い人たちに任せよう。」

    タカシは最後のショーを開くことにした。商店街中に「タカシの引退ショー」のポスターが貼られ、町の人々は「絶対に見逃せない」と広場に集まった。その日はいつもより大勢の観客でいっぱいだった。

    ショーが始まると、タカシは昔と変わらない笑顔で、懐かしい手品を一つずつ披露した。トランプが消えたり、コインが増えたりと、シンプルだけど温かみのある手品に、子どもたちは歓声を上げ、大人たちは微笑みながら拍手を送った。

    最後の手品を終えたタカシは、帽子を取って深々と頭を下げた。
    「長い間ありがとう。みんなの笑顔が、僕にとって一番の宝物でした。」

    その瞬間、観客の中から声が上がった。
    「タカシさん、今度は僕たちからの手品だよ!」

    驚いたタカシが顔を上げると、観客たちが次々と手に何かを持ち上げた。それは小さな紙袋や包みだった。中には手書きの手紙や町の名産品、子どもたちが描いた絵などが入っていた。

    「これは、タカシさんが私たちにくれた幸せのほんの一部を返すための贈り物です!」
    「あなたのおかげで、家族と一緒に笑う時間を取り戻せました!」
    「あの手品がなかったら、私の人生は今のように楽しくなかったです!」

    町の人々が次々とタカシに感謝の言葉を伝え、贈り物を渡した。タカシは驚き、次第に涙が頬を伝った。

    「みんな…こんなことを考えてくれていたなんて…」

    一番最後に現れたのは、昔パン屋だったおじさんの孫だった。彼はタカシに大きな箱を渡した。中を開けると、そこには商店街のみんなの写真がびっしり貼られたアルバムと、金色のトランプが入っていた。

    「これは、タカシさんが作った幸せの歴史です。そして、この金色のトランプは、僕たちがあなたの功績を称える記念品です。」

    広場は大きな拍手に包まれた。タカシはアルバムを抱きしめながら、もう一度深くお辞儀をした。
    「ありがとう…本当にありがとう…僕の人生で、これ以上の幸せはありません。」

    その日、商店街は笑顔と温かい気持ちで溢れた。タカシが引退しても、彼の「おすそ分けの精神」は、町の人々の心に深く刻まれ、新しい世代がその幸せを引き継いでいくことになった。

    おしまい。

  • 【短編小説12】

    湯煙

    山間の静かな温泉旅館「ゆのやど」。築80年の古びた木造建築だが、風情があると評判の宿だ。館内には常に薄く湯煙が漂い、独特の雰囲気を醸し出している。

    ある日、若女将の美雪は、珍客を迎えた。
    男はスーツ姿で、見た目はどこにでもいるサラリーマンだが、どことなく不思議な雰囲気を漂わせている。名を「藤田」と名乗った。
    「少し長めに滞在したいんですが、よろしいですか?」
    彼の目は旅館の隅々まで観察しているようだった。

    美雪は快く部屋に案内した。けれど、滞在初日から藤田は奇妙だった。
    露天風呂に入るでもなく、食事もさっと済ませると、一人で廊下を歩き回る。そして、湯煙をじっと見つめては、何かをメモしている。

    「湯煙を研究でもしてるのかしら…?」
    美雪がそう思った矢先、藤田が声をかけてきた。
    「若女将、この旅館、湯煙が出すぎていませんか?」
    「ええ、昔からなんです。霧のように立ち込めているのが売りで…」
    「でも、この湯煙、少し変ですよね。たとえば、風のないところでも動いている」

    美雪は言葉に詰まった。確かに、湯煙は旅館中で自由に漂うように見える。まるで意思を持っているかのように。

    次の日、藤田は小さな装置を湯煙の中に設置し始めた。装置は音もなく、ただ淡々と作動しているようだ。美雪が不安になって問いただすと、彼は笑顔で答えた。
    「これは湯煙の正体を調べるための機械です。ただの蒸気か、それとも…ね。」
    「それとも…?」
    「何か、もっと特別なものかもしれません。」

    その日の夜、異変が起きた。旅館中の湯煙が一斉に動き始めたのだ。まるで生き物のように渦を巻き、音を立てながら廊下や部屋を行き来する。驚いて飛び出してきた宿泊客たちもその光景に息を呑む。

    「これは…!まるで、湯煙が怒っているみたい…」と美雪がつぶやくと、藤田は冷静に装置を取り出した。
    「どうやら、この旅館の湯煙は、ただの蒸気ではないようです。」
    「じゃあ、一体何なんですか?」
    藤田は意味深な笑みを浮かべた。
    「ここは、湯煙たちの故郷なんです。彼らにとって、この旅館は特別な場所。私が少し刺激しすぎたようですね。」

    彼が装置を止めると、湯煙は次第に静まり、元通りに戻った。

    翌朝、藤田は静かに旅館を去った。美雪がふと気づくと、彼の残した宿帳には「湯煙研究家」と書かれていた。
    その後も「ゆのやど」の湯煙は健在で、静かに旅館を包み込んでいる。だが、美雪は時々思うのだ。湯煙の奥に、何かもっと深い秘密が隠されているのではないかと。

    藤田が旅館を去った後も、「ゆのやど」は以前と変わらず、のどかで穏やかな日々を送っていた。だが、美雪の心には、藤田の言葉がどこか引っかかっていた。

    「湯煙たちの故郷…」
    そうつぶやくたびに、湯煙がふわりと揺れ、まるで答えたがっているように見える。

    そんなある日のことだ。旅館の大広間で、常連客の老夫婦が不思議な話を始めた。
    「昔、このあたりに神様が住んでいたって話を知ってるかい?」
    「ええ、この土地の守り神が温泉を湧かせてくれたっていう伝説ですよね。」美雪は答えた。

    老夫婦は首を振る。
    「いや、もっと珍しい話だよ。湯煙そのものが神様だったって言うんだ。」
    「え?」
    「湯煙に姿を変えた神様が、この土地を巡っているうちに、ここに落ち着いたってさ。温泉の湯気が多いのは、その神様の気まぐれだって。」

    その話を聞いて、美雪は藤田の言葉を思い出した。「湯煙たちの故郷」というのは、まさか…。

    その夜、美雪は一つの決心をした。
    「湯煙に聞いてみよう。」

    露天風呂は静まり返り、月明かりが湯船に映り込んでいる。美雪は浴衣のまま湯船の縁に座り、小声で話しかけた。
    「ねえ、湯煙さん。本当にあなたたちはこの土地の神様なの?」

    返事があるはずがない、そう思っていた。だが、湯煙がふわりと舞い上がり、美雪の周りを優しく包み込んだのだ。まるで言葉を持たない何かが「そうだ」と答えているかのように。

    「どうして、私たちを選んでくれたの?」
    湯煙はしばらく揺れた後、突然、浴場の外へと流れていった。驚いた美雪はそれを追いかける。湯煙は長い廊下を抜け、階段を上がり、旅館の一番奥の部屋へと導いていく。そこは普段は使われていない古い部屋だった。

    襖を開けると、部屋の中央に大きな木箱が置かれていた。木箱は年月を経て黒ずみ、蓋には見たことのない文字が刻まれている。湯煙はその箱の周りを漂いながら、美雪に語りかけているようだった。

    「これを、開けろと…?」
    美雪が蓋を開けようと手をかけた瞬間、旅館全体が微かに揺れた。まるで何かが目を覚ますような感覚。そして、箱の中から現れたのは――湯気だった。だが、それはただの湯気ではなかった。虹色に輝き、形を変えながら部屋中に広がっていく。

    その中心に、ぼんやりと人の形が現れた。小柄な老人のようにも見えるが、顔ははっきりしない。彼は静かに美雪に語りかけた。
    「お主、この宿を守り続けておるな?」

    美雪は驚きながらも、うなずいた。
    「そうです。ですが、あなたは…?」
    「わしは、この土地の湯を生み出す者。古の時代より、ここに眠っておった。」

    老人のような姿の湯煙は微笑むように形を変え、ふわりと舞い上がった。
    「わしを解き放った礼に、この宿とお主に力を貸そう。お主がこの宿を守る限り、湯煙はお主の味方だ。」

    そう言い残すと、湯煙は静かに箱の中に戻り、また姿を消した。しかし、その日以来、「ゆのやど」の湯煙はさらに特別なものになった。温泉の効能はより強まり、旅館に訪れる人々は皆、心身ともに癒されて帰るようになったのだ。

    そして、美雪は時々露天風呂の縁に座り、湯煙にそっと語りかけるのだった。
    「これからも一緒に、この宿を守っていこうね。」

    湯煙は、ふわりと頷くように揺れて応える。