小さな出会い

翔太は、毎日同じ道を通って職場と家を往復するごく平凡な会社員だった。ある日の帰り道、彼はふと普段とは違う道を通ってみることにした。何か刺激が欲しかったわけでもない。ただ、何となく足が向いたのだ。
その道は、古びた商店街の脇を通る細い路地だった。誰も歩いていない静かな通りに、一匹の猫がぽつんと座っていた。
「……お前、こんなところで何してるんだ?」
翔太が近づくと、猫はまるで待っていたかのように鳴き声をあげた。「にゃあ」という声は驚くほど澄んでいて、何だか心に響くようだった。
彼はしゃがみ込み、そっと手を伸ばした。猫は警戒する様子もなく、そのまま彼の手に顔を擦り付けてきた。
「人懐っこいな。飼い猫か?」
首輪はついていないが、毛並みはきれいで、どこか優雅さすら感じさせる猫だった。
その日を境に、翔太はその道を通るたびに猫と会うようになった。猫はいつも同じ場所に座っており、翔太が近づくと嬉しそうに鳴き声をあげて迎えてくれる。
翔太は次第にその時間が楽しみになり、少しだけ遠回りをしてでも猫に会いに行くようになった。仕事で嫌なことがあった日も、猫に会うと不思議と気持ちが和らぐのだ。
「お前、名前とかあるのか?」
ある日、そう尋ねると、猫は「にゃあ」と答えた。
「……じゃあ、お前の名前は『にゃあ』だな。よろしく、にゃあ。」
翔太は笑いながらそう言った。その夜、久しぶりにぐっすり眠れたのは言うまでもない。
ある雨の日、翔太がいつもの路地に向かうと、猫の姿がなかった。いつもは待っていてくれるはずなのに……。
「どこに行ったんだ、にゃあ?」
不安を抱きながら辺りを探していると、小さな鳴き声が聞こえた。声のする方に急いで向かうと、猫が雨に濡れながら植え込みの中でうずくまっていた。
「こんなところで何してるんだよ……!」
翔太は傘も差さずに猫を抱き上げると、そのまま自宅へ連れて帰った。猫は濡れて冷たくなっていたが、翔太の腕の中で安心したのか、静かに目を閉じていた。
その夜、翔太は猫をタオルで拭き、温かいミルクを用意した。猫は元気を取り戻し、再び澄んだ声で鳴いた。
「ここにいていいんだぞ。俺の家は狭いけど、お前の居場所くらいはあるからな。」
翔太がそう言うと、猫は彼の膝に乗り、満足そうに丸くなった。
それ以来、猫は翔太の家で暮らすようになった。翔太の生活は一変した。猫がいるだけで、家に帰るのが楽しみになり、毎日が少しだけ明るくなったのだ。
数カ月後、翔太は仕事から帰る途中にふと気づいた。あの路地を通ることはなくなったが、もう何も寂しくなかった。家には「にゃあ」が待っている。それが彼の心に大きな安らぎをもたらしてくれたのだ。
「お前、あの日あの場所で待っててくれてありがとうな。」
翔太がそう言うと、猫はまるで分かっているかのように「にゃあ」と答えた。その声は、あの日と同じく澄んでいて優しい響きだった。
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