【短編小説15】

森の記憶

街のはずれに、誰も近づかない森があった。地元の人たちは「入ると帰ってこられない」と噂し、その場所を避けていた。だが、大学生のケイはその話を全く信じていなかった。

「ただの迷信だろう。科学的に説明できるさ」。

ケイは一人で森を調査しようと思い立った。幼い頃からオカルトや超常現象に興味があり、「謎」を解明することが趣味だったのだ。

森に足を踏み入れると、空気が急に変わった。風の音が消え、代わりに木々のざわめきが耳を満たす。まるで何かがケイの動きを監視しているような感覚だった。

「気のせいだ、気のせいだ」と自分に言い聞かせながら、ケイは奥へ進んだ。足元には古い木の根が絡まり、ところどころに動物の骨らしきものが転がっている。

ふと、ケイは奇妙なものを見つけた。木の幹に彫られた小さな模様だ。それは、人間の顔を抽象的に描いたようなもので、無数の目がこちらを見つめているように感じられた。

「なんだこれ……?」

さらに奥へ進むと、また同じ模様が別の木に彫られているのを見つけた。そして、それが連続して森全体に広がっていることに気づいた。

「まるで……道案内みたいだな」。

ケイは模様をたどるように歩いた。すると、突然、周囲が異様な静寂に包まれた。鳥の声も、虫の音も、何も聞こえない。代わりに、遠くから微かな声が聞こえてきた。

「――助けて――」

「誰だ!」ケイは叫んだが、返事はなかった。

声の方向に進むと、小さな祠のようなものが現れた。それは苔に覆われ、何十年も放置されているようだった。中を覗くと、人の形をした木彫りの像が置かれていた。像は不気味なほど精巧で、まるで生きているかのような気配を放っている。

その瞬間、背後でカサリと音がした。振り返ると誰もいない。だが、足元に影が映っている。

「誰かいるのか?」

ケイが声を出すと、祠の中の木彫りの像がわずかに動いた。

――次の瞬間、意識が途切れた。

数日後、ケイの大学で「行方不明になった」という噂が流れた。警察が森を捜索したが、彼の痕跡は一切見つからなかった。ただ、祠の中には新しい木彫りの像が増えていた。

ケイの意識が途切れた時、彼は暗闇の中に落ちていくような感覚に包まれていた。どれほどの時間が経ったのかわからない。周囲には何も見えず、何も聞こえなかった。ただ、自分が「ここにいる」という感覚だけがかろうじて残っていた。

だが、次第に変化が訪れた。ケイの中に、見覚えのない光景が流れ込んでくる。森の中で遊ぶ子どもたち、薪を集める村人、何かを祈るように木を彫る男――それらは、遥か昔の森の記憶だった。

「これ……誰の記憶だ?」

彼の問いに答える者はいない。しかし、その光景は次々と頭の中に流れ込み、やがて一つの真実が浮かび上がってきた。

森はかつて人々の生活の中心だった。豊かな自然と共存し、祠で感謝を捧げることで、村人たちは平穏を得ていた。しかし、ある時から人々は森を軽視し、木々を無秩序に切り倒し始めた。怒り狂った森は村人たちを次々と飲み込み、祠に封じ込めた。それ以降、この森に足を踏み入れる者は、「森の記憶」として取り込まれるようになったのだ。

突然、ケイの意識に鋭い痛みが走った。次の瞬間、彼は自分が祠の中にいるのを感じた。しかし、それは彼自身の身体ではなかった。

視界は木の質感に覆われ、動こうとしても身体が硬直している。ケイは自分が木彫りの像になったことを悟った。

「いやだ……こんなことって……!」

叫びたい衝動に駆られるが、声は出ない。代わりに、遠くで微かに人の足音が聞こえた。それは警察や地元の人々が捜索に来た音だった。

ケイは必死に彼らに呼びかけようとした。しかし、祠の中に置かれた木彫りの像はただ静かに佇むだけだった。

それからしばらくして、ケイの意識は再び霧の中に包まれた。時折、祠の前に人が立つ気配を感じる。だが、誰もケイの存在には気づかない。そして彼は悟った――自分はもう「人間」ではなくなり、「森の記憶」の一部として永遠にここに囚われるのだと。

時間の感覚が消えた頃、ケイは一つの「役割」を与えられた。新たな侵入者が現れるたび、森の力が彼に囁く。

「次の像を作るのだ」と。

ケイはかつて人間だった自分を忘れ、ただ森の命令に従い、新たな犠牲者を迎える役目を繰り返す存在となった。

そしてある日、また一人の若者が森に足を踏み入れた。

祠の中のケイは、微かに動き出す――かつて自分が感じた恐怖を知ることなく、次の訪問者を迎え入れるために。

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